したがって、「刑法三九条は削除せよ!是か非か」というセンセーショナルなタイトルですが、刑法三九条を削除すべきかという論点よりも、むしろ39条が抱える問題を各論者が述べています。
したがって、削除すべきであるとはっきり主張する論者は、2名ほど。
削除すべきでないと主張する論者は約1名にとどまる。
ここで、各論者の主張を紹介する前に、僕の職歴に触れないわけには行かないだろう。
僕は、以前、保険調剤薬局に薬剤師としてして勤務していました。その前は、総合病院の病院薬剤師として。
総合病院といっても、精神科はありませんでした。しかしながら、元精神科医も勤務しており、内科的疾患を併発した精神病患者も入院していました。
また、今で言う認知症の患者さんが、非現実的な事を言うこともあったようです。
そのため、元精神科医による勉強会もありました。
僕がベットサイドに服薬指導に行った精神病患者は、どこが病気なのだろうと思う人がほとんどで、皆、おとなしい人でした。
僕も一応、精神科領域の勉強をしており、そこからの知識を皆さんに披露すると、精神病は、寛解期(病気が落ち着いて、ほとんど普通の日常生活が送れる)の状態になっても薬を飲み続けなくてはならず、薬を中断すると、2年以内には90%以上の確率で再発します。
そのため、糖尿病などの生活習慣病のように根本的に治るという病気ではありませんが、白血病などと同じように寛解期に入ると、普通の人なんら変わらない日常生活が送れます。
統合失調症の発病の原因はわかっていませんが、脆弱性の上にストレスがかかると、ほとんど青年期に罹るとされています。
そのため100人に1人の割合で発病しますが(従って珍しい病気ではありません)、中年期に入った人が発病するということは、鬱病と違ってほとんどないでしょう。
一口に精神障害といっても、その病名は、統合失調症、鬱病、躁うつ病、てんかんなど多岐にわたり、その性格も大きく異なります。
さて、うんちくはこのくらいにして、本題に入っていきましょう。
僕の39条に関する意見は、この間のマスコミによる情報の氾濫によって、不確かなものに一時なりましたが、本書を読んで例え精神障害者であろうと、その犯罪が計画性に基づき、複雑な過程を含むものなら、遠慮なく罰するべきだと思います。
ここで押さえておかなければならないのは、宅間守の言質によるともよらずとも、世間では、精神鑑定で被告が精神病と明らかにされれば、“無罪”になるというような考えが流布されているようですが、それは、フィクションです。
例え、精神鑑定で精神病と明らかにされても、20例中5例くらいしか無罪になっておりません。
(これは、本書によって与えられた知見ですが、その後の報道を見ると果たして本当だろうかというのが、私の現在の感想です。)
それでは、順番に各論者が主張する論拠を僕の意見を交えながら、紹介していきましょう。
編者・呉智英による「責任という難問」呉智英は、明治国家が近代刑法の原理のもと、うち立てた“責任能力”を問う刑法三九条は、現代では限界に来ているのではないかと問います。
そして、「心神喪失と認められたら一律に不可罪にするわけではなく、心神耗弱と認められても一律に罪を軽減しない、ということぐらいはできるだろう。被告人が拒否している時は、精神鑑定も、刑法三九条の適応そのものもできないという改正もあってもいいのではないか。措置入院と刑罰の併用だって検討されるべきだろう。」と主張しています。
また、「忘れてならないのは、生涯何の凶悪事件も起こさない心身喪失者や心神耗弱のほうが圧倒的に多いことである。この人たちが“未発の”刑事責任無能力者とされないためにも、犯罪に関わった心身喪失者や心神耗弱者の責任を問うことが必要なのである。」と述べています。
一般の精神障害者を心神喪失者と述べるのは気になるが、普段、過激な意見を述べている呉智英氏とは思えない中庸な大人な意見だと思います。
「三九条はきれいさっぱり削除されるべきだ」 佐藤直樹佐藤直樹氏は、「近代における責任能力の成立の事情を歴史的に概観することによって、責任能力問題の根底にひそむ刑法の責任非難のあやうさを明らかにし、刑法三九条の責任能力規定は削除されるべきである。」と述べようとしています。
そもそも「判例上責任能力」の解釈による、犯罪者に理性(善悪の判断)や自由意志がなければ責任能力がない、とする刑法の原則が確立されたのは、近代刑法が成立する十八世紀末から一九世紀前半にかけてとし、その根拠を歴史的に概観しています。
そして、「責任能力の基準として、善悪を判断できる理性や自由意志を有すること、つまり刑法における『期待される人間像』としての、『自由意志-理性的人間像』が製造された」のは近代に入ってからとしています。
それ近代以前に日本でもヨーロッパでもあった、犯罪を犯した精神障害者が責任を免除されたり、刑罰を軽くされたりというケースは、『狂人は自分の病気によってすでに十分罰せられている』というローマ法の原則によるものであったとしている。
よって、犯罪を犯した精神障害者の免責や刑罰軽減は、法律家や精神科医が主張する『人道主義』や『人間愛』によるものではなく、少なくとも近代以降は、犯罪をおかした精神障害者は『人間』というカテゴリーから排除されたというのが正しいとしています。
佐藤直樹氏は、このような人間像は、フィクションであり、まったくインチキくさいとしています。
また、「このような精神障害者の『人間』というカテゴリーからの排除」をM・フーコーの研究から明らかにしようと試みる。
そして、「刑法上の『自由意志-理性的人間像』が生まれたのは、この監獄労働の登場と密接につながっている。」とする。
そして、理性/狂気の間に線が引かれ、病院に収容され、刑罰からも排除されることになったのは、精神障害者が監獄労働という刑罰を受ける能力のない者は、「『犯罪と刑罰の等価交換』の取引ができる理性的な主体になりえないからである。」とする。
そして、責任能力の規定が、精神障害者の『人間』ということカテゴリーから排除であるため、「刑法三九条の責任能力の規定は、刑法典からきれいさっぱり削除されるべきだというのが正しい。」と主張しています。
しかしながら、法学者である佐藤直樹氏が、アジール《中世においてある特定の場所にたどり着くと、世俗的権力(当然、刑事罰も含む)が及ばない地域が現実に存在した。また、歴史学者・網野善彦氏によると、何らかの犯罪者が、藩を超えて越境すると、これまた、刑事罰が適応されない例を提示している》の存在をどうとらえるのだろうか?
現在でも離婚調停を除く、家族間の諍いは、司法はタッチしないことになっている。
僕は、例え近代が法治国家の世の中だといっても、全てがなんら例外もなく、同様に罰せられるのには、反対です。
そんな世の中は、訴訟社会アメリカのように、非常に生きにくい世の中だと思っている。
「新論・復讐と刑罰」 小谷野敦この小谷野敦という人は、本当に比較文学の博士号を東京大学で取っているのだろうかと疑いたくなるほど、文学・映画を一面的にとらえ、全く芸術を理解していらっしゃらないようだ。所詮、学術博士。
しかしながら、こんなアホに学術博士でも進呈した東京大学大学院の教授の方々の見識を疑う。
現在、東京大学、明治大学という優秀な学生相手に非常勤講師をしているというが、教えられる学生が可哀想だし、独立法人となったといえ、非常勤講師の給与がどこから、出ているのかは知りませんが、もし税金が使われているなら、適当な理由をつけて首にしていただきたい。
一流大学でこんなバカな先生の存在は認められません。
彼は、文化勲章受章(東大の先生なら漢字くらい正しく使ってね!)の刑法学者・東大名誉教授・団藤重光の「死刑廃止論」を感情的だと切って捨てるが、彼のアホなこの論文こそ、論理の筋道もなく、全く感情的な文章だ。
まず、精神医学が、治療において、「ほとんど、あるいは全くの無効、即ち二〇世紀最大のジャンク・サイエンス」と切って捨てるが、僕も精神医学がサイエンスではないことを認めるが、また、フロイトと患者の間で取り交わされた会話は、患者が徐々にフロイトが抱くエディプス・コンプレックス等のフロイトの物語に巻き込まれ、フロイトに受け入れられる内容を喋ったに過ぎないと考えています。
しかしながら、大多数の精神病患者が、妄想などに振り回される急性期を乗り越え、日常生活に支障をきたさない寛解期に移行している現実をどうとらえているのだろうか?
僕は精神医学とは、精神科医の個性とかに左右される、もっと人間的な営みであると考えています。
もっと色々、調べて、もっと考えてから、自分の文章を世に出しましょうね、小谷野先生!
また、「犯罪被害者への大いなる共感がなぜいけないのか」とバカな事をいっているようですが、僕は、今までの歴史は、加害者の立場をあまりに偏りすぎたと思っていますが、それは、少なからぬ冤罪の歴史があったり、今だに警察は自白偏重で、取調室もブラックボックス化されている事実があるのだと考えています。
被害者が自分の裁判に傍聴という形でしか参加できず、加害者が少年の場合、具体的な犯罪事実、裁判の行方の蚊帳の外に置かれているのは全く持っておかしいとも考えています。
一般人が犯罪事実を知り、被害者の事を可哀想に思い、共感を持つのと、それを公共の場で言うのと、被害者の気持ちをまるで代弁しているかのように、犯罪事実を取り上げることは、一般大衆をミスリードすることになりませんか?小谷野先生!
マスコミの人間が、次々起こる犯罪において、はたして、どれだけの思い入れを持って被害者の気持ちを理解しているか、はなはだ疑問でもあります。
逆に、マスコミの人間に傷つけられたという犯罪被害者が多くいることをお忘れなく。
人の悪口を言う前に、物事をもっと多面的に捉え、システマティっクに考えましょうね!小谷野先生!
ここから、彼の復讐論が展開されるわけであるが、まず、彼は、被害者の代弁者は遺族ではなく被害者自身だと述べている。
そんなこと言ったて、殺人事件の場合は被害者は死んでるし、第一、自分自身が言った犯罪被害者への共感とは、ほとんど被害者の遺族の心情を慮ってうまれるものではないのですか。小谷野先生!
そして、一人殺せば例外は認めるが基本的に死刑(公権力による復讐)と結論づける。
僕も少なくとも三人、殺さなければ死刑にならないという司法的合意は全くもっておかしいと考えています。
しかしながら、一人殺せば死刑という意見には、僕の考えは留保させてもらいます。
ただし、この小谷野先生の論理によれば、「被害者のあだ討ちのために加害者を死刑にすべきだ」という意見には全く同調できません。
殺された被害者が、加害者に何を望むかは、類推の域をでませんが、単細胞な小谷野先生のように、即死刑を望む被害者が全てだろうか。
僕が考えるに、まず普通は何故、自分が殺されなければならなかったか知りたいというのが人情だろうと思います。
果たしてどれだけの犯罪被害者が、加害者が自らの罪を悔いず、なんら被害者に許しを請わず、死刑となることを望んでいるのだろうか?
とにかく、こんなアホは、本書で小谷野先生、唯一人です。
「『刑法三九条』を削除する理由はどこにもない」 橋爪大三郎個人主義者である僕は、犯罪は、加害者が行った結果、責任が生じ、ルールを違反した者には、刑罰という名の処分があるという論は、至極当然のように思われます。
そして、話題は、精神障害者の犯罪に移る。
まず、橋爪大三郎氏は、「精神病者は、周囲の人に理解不能で、犯罪に当たる行為がする場合があります。しかし本人は、それしかできないのです。もしも本人が意思してほかの人間と同じように振舞うことができるのなら、精神病者ではない。本人にもどうしようもないから、精神病者なのです。」としているが、これは全く精神障害者に対する無理解だろう。
精神病者だからといって、“それしかできず”に犯罪に手の染める人は、覚醒中毒によって被害妄想を抱くやくざくらいなものではなかろうか?
精神障害の疑いがある宮崎勤被告は、果たして“それしかできず”、いたいけのない子供たちを殺したのだろうか。
また、精神科通院歴があり、自殺歴まである宅間守は、“それしかできず”小学校まで乗り込み、多数の児童の命を奪ったのだろうか?
また、精神鑑定で精神病と結論された被告のうち、少ない割合でしか実際には、罪を免責されたものがいないという事実をどう説明するのであろうか?
橋爪大三郎の論は非常に理性的ではありますが、彼は、どっぷりつかった近代人であると思います。彼は、現代思想の紹介みたいな本も沢山、書いていますが、頭だけで理解しているだけで、その根本の思想というものを全く理解しているようには思えません。
それは、本論分でチラッと触れている未開人や中世の人々への言及でよく解ります。
また、最後に監視社会が徹底するとセキュリティが高まり、犯罪が減少するだろうと楽観的な意見を述べていますが、本当に社会学者なのだろうかと思います。
監視社会がはびこると、個人のプライバシーが著しく侵害され、その膨大な個人のプライバシーの情報は、公権力に握られるという事をなんとも思っていないのだろうか。
また、ふとしたキッカケで他人のプライバシー情報を得た一般の人が、よからぬ事を考えないとはいえないのではないだろうか。
「刑法三九条論議の一歩手前で」 浜田寿美男僕は刑法三九条とは、てっきり、その適応は精神障害者の事かと思っていたのですが、知的障害者も入る事を、本論文を読み初めて知りました。
浜田寿美男氏は、精神鑑定が原理的に犯行当時の精神状態を類推できるのかと、知的障害者が起こした実際の事件の取り上げながら、具体的に追っています。
浜田寿美男氏もまた取調べ時の様子がブラックボックス化されていることを問題にしており、録音・録画によって可視化するべきだと述べています。
「求められているのはむしろ新しい『責任能力論』である-処遇論と訴訟能力論の重要性を中心に」 副島洋明副島洋明さんは、現役の弁護士であり、自分が担当した発達障害のある被告の裁判の行方について触れております。
そして、彼らに必要なのは「生き直し」の更正のための教育であり、「大事なのは処遇論だ」と主張しています。
そして、「もっとその人間の全体に迫る精神鑑定はできないだろうか」と問題提起します。
また、知的・発達障害者の司法で置かれている現状の立場を問題とし、訴訟能力をクローズアップさせています。
そして、「自分の蒔いた種は自分で刈り取れ」という現在の司法の責任主義のあり方を、知的・発達障害の人たちの裁判を手掛けるものとして疑問を呈しています。
そして、「この社会で彼らをどう生き直させるか、社会と折り合いをつけさせるか、その上に立った『裁き』をするべきではないか。」と処遇論を展開します。
三九条に関しても、『新しい責任論』の必要性を投げかけ、「処罰あるいは刑罰というものが応報的な考えではなく、もっと豊なものとして捉えられていくことが大事だろう」と主張します。
現在、反動だろうかいわゆる人権派とされている人達の旗色が悪いですが、僕もやすっぽいヒューマニズムを振りかざして、イデオロギー的な主張を繰り返す人権派には正直、うんざりなのですが、副島洋明氏は、知的・発達障害の人たちの現在、司法で置かれている立場というものを、本当に心から嘆き、心痛めているということが文章から伝わりました。
「寡黙な条文を補完するもの」 林幸司精神科医であり精神鑑定医の林幸司氏は、「刑法三九条の最大の問題は、『罰しない』の後に続く文言がない」ことを問題にする。
そして、精神病院の措置入院制度(自傷他害の恐れのある精神病患者は、精神科医の判断のもと、強制的に入院させる制度)における医療の限界、「長期間収容すれば医療の名のもとの刑罰だと批判されるし、短期間で退院させれば危険な障害者を野放しと批判される。」ことを嘆いています。
また、臨床現場で「重大な犯罪でもないし、症状との因果関係もあやしい、もとより精神障害といえるのかどうかすらあやしい」中途半端な者たちが居直り、現場で厄介な代物となっている事実を報告している。
また、マンパワーの少ない精神病院の現状、『懲罰』の概念すら存在しない医療現場の混乱も報告している。
そして、「病院=善、刑務所=悪、なのだろうか」と問いかける。
また、なんでもカウンセリングで更正できるかのような幻想を振りまくコメンテーターに、カウンセリングは「刑罰と並行して行わなければ意味がない。」と説く。
そして、弁護戦略として、被告の責任能力を安易に争う弁護士を批判し、「精神障害者の犯罪といえば責任能力の有無の一本槍であり、買った負けたにうつつを抜かしている我々の業界はやはりどこかおかしいのではないか。」と結論づける。
「生活や社会をどうまもるのか」 滝川一廣滝川一廣氏は、「煽り」ではなく冷静にこの問題を考えよとしている。
刑法三九条をめぐるこの問題を
(甲)私たちの日常生活の安全や社会の治安が守られるためにはなにが大切か。
(乙)私たちが精神障害となったとき、十分なケアと回復や社会復帰の道が、つまり生活がまもられるためには何が大切か。
という観点から捉えようとしている。
滝川一廣氏もやはり精神科医であり鑑定医の経験もあります。
まず、『分裂病犯罪の精神鑑定』(1978)に報告されている統合失調症と鑑定された犯罪事例二十例のうち無罪や不起訴になった事例が五例である事を述べ、池田小学校事件で煽られた「無罪放免」という神話を打ち砕きます。
そして、無罪になった事例、有罪になった事例を詳しく述べ、精神科医の経験から意見を述べています。
また、裁判において裁判官が求める『公判鑑定』よりも取調べ中に検察官が求める『起訴前鑑定』の方が、「すべての事例を裁判にかけて判決を待つ膨大な時間的・経済的コストを減らして、明らかに精神疾患によるものはいちはやくチェックして医療につなげられるメリットがある。早期治療による治癒・軽快によって精神疾患に起因する犯罪の再発を予防できるとしたら、社会防衛的な観点からもコストパフォーマンスの高いシステムといえないだろうか。(甲)(乙)いずれをとっても有益である。」とする。
そして、「障害者の犯罪は繰り返されるのか」と問題提起し、調査結果より触法精神障害者の再犯率は、全体として低いばかりではなく、殺人や放火のような重い犯罪においても低いことを提示しています。
そのことによって、「触法精神障害者が危険なまま野放しにされているみたいな過大な危機意識は、およそ根拠が薄い」ことを明らかにしています。
結論として、滝川一廣氏は、刑法三九条を「合理的なシステム」として評価しています。
最後に、被害者の感情について、交通事故の被害者を例に述べ、世の中には不条理なことが沢山あるという形で結論づけているが、これは、いかがなものだろうか?
理不尽な形で命を奪われた被害者の遺族のことを考えると、とても不条理では片付けられないのではないだろうか。
僕は、被害者への共感そのものがいけないと言っているのではありません。
それを前面に出して、あーだ、こーだと言うのが間違いだといっているのです。
精神障害者の被害者に限らず、尊い命を奪われた被害者には、公的な援助があってしかるべきだと思います。
手弁当で被害者の方々が、何らかの会を立ち上げて社会に訴えようとしているだけの現状は、全くおかしいと思います。
また、三九条の問題を考えるに(甲)の観点は、うなづけますが、(乙)の観点はいかがなものだろう?
編者 佐藤幹夫による「刑法三九条 何が問題なのか」佐藤幹夫氏は、まず「『39条削除』の主張が動機とするもの」を探る。
これは、「罪を犯したものがなぜ罰せられないかという」シンプルな問いであり、犯罪被害者が、裁判から取り残されている立場の苦しみであるとする。
また、マスコミの犯罪被害者への過剰な取材による苦しみもあるとする。
そして、39条を削除を主張する人々の根拠を
1.『責任能力』という概念が耐用期間の限界に来ているのではないか。
2.責任能力とは何かが、刑法典のどこにも示されていない。
3.精神鑑定がどこまで客観的で科学的であるのか。
にまとめ、付随する問題を
4.最終的に責任能力を判断するのは誰か。
5.鑑定結果が何故鑑定医によって異なるのか。また詐病を医者は見抜くことができるのか。
6.責任能力なしと判断されたとき、完治しないまま社会復帰しているのではないか。
また、入院期間があまりにも短すぎるのではないか。
7.精神障害者にとっても「裁判を受ける権利」がある。39条は差別条項ではないか。
そして、著者・佐藤幹夫氏の見解が展開する。
まず、「責任能力とは司法判断である」。これは、「幼女連続誘拐殺人事件」も控訴審において判決文で述べられている。
しかし、同時に精神障害を疑われている犯罪者が、毎年ほぼ90%前後の人々が不起訴処分になっている事実を「犯罪白書」から突きつける。
佐藤幹夫氏は、この不起訴率90%の背後に、有罪率99.9%という驚くべき数字の影を見る。
つづいて、精神鑑定について。
ここでも、精神病=無罪、というのも神話にすぎないと繰り返されている。
この「精神病=無罪という神話」が、詐病を精神科医がどこまで見抜けるかという疑念を生んでいる大きな要因ではないかと佐藤幹夫氏は推測する。
そして、「仮に詐病を見抜けないとしても、それが39条廃止の理由にならない。」とする。なぜなら、精神病が疑われる全ての被告人に対して、判決が出されるまで公判を続行させねばならず、このことによって「治療の機会が奪われることになり、甚大な人権侵害」だからだ。
続いて、「精神鑑定はどこまで科学的なのか」という疑念に応える。
「なぜ精神鑑定が科学であらねばならないのか」と。
精神鑑定とは経験の積み重ねであると主張する。
むしろ「鑑定医たちの示す鑑定がどこまで社会的了解を得られるのか。」を危惧する。
そして、「科学的な装いをしてさえいれば無批判に信じ込んでしまうことの危うさ」を訴える。
このことは、僕も納得できます。“何も科学が全てではないと。”
そして、削除論者が言う「39条を持つのは先進国で日本だけである」に対して、彼らが言わないこと、「逮捕・拘留から起訴までの長期の拘束を認めているのも、先進国で日本だけである、自白偏重の取調べについて言及する。
そして、彼ら削除論者に知ってもらいたいこととして、「知的ハンディを持つ子供たちと二十年付き合ってきた」佐藤幹夫氏は、知的障害者の裁判を挙げる。
「裁判官や検察官、弁護士のなかでいったいどれくらいの人たちが、知的障害社の障害特性を理解しているのだろうか。」と疑問を投げかける。
これらの弊害を取り除くために「ビデオ収録やテープ録音による取調べの可視化」を訴える。
著者・佐藤幹夫氏は、現在、突然わが子を奪われた父親、母親へ取材を試みている。
僕は、本書を手にするまでは、知的障害を持つ人たちの裁判で置かれている状況を全く知らなかったのであるが、著者・佐藤幹夫氏の真摯な訴えは、確実に僕の心に響きました。
刑法三九条を考える上で、本書のように多くの論者によって多様な意見を聞けたのは、大変、有意義でした。
もっと詳しく知りたい方は、是非、本書をてにとって見てください。
にしても、洋泉社新書yの編集者は目配りがきいている。
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