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「戦後教育で失われたもの」を読んで自分の時代を振り返りながら日本の今の教育を考える

JUGEMテーマ:読書
JUGEMテーマ:新書

ニートや凶悪事件で、マスコミに度々取り上げられている日本の若者であるが、彼らが変わってしまった原因は、果たして何でしょうか?
よく言われるのが教育のせいだと言う声が大きいですが果たしてそうでしょうか?

森口朗著『戦後教育で失われたもの』 (新潮新書)で、著者・森口朗氏は、日本の戦後教育、「平和」「自由」「人権」を中心テーマにして進めてきた教育が日本人に与えた影響を考察しています。

著者・森口朗氏は、教師経験もありますが、現在、東京都庁に勤務しています。
しかし、現在、東京都庁が進めている公立高校の君が代、国旗での教師への管理化の推進委員であるかどうかは、定かではありません。

ニートとは、本来、福祉大国イギリスでブレア政権が福祉政策を見直すにあたって使われた言葉だそうです。
本場イギリスでのNEETの定義は、16歳から18歳の「就労せず、就学せず、就労訓練しない」若者の事を指します。
驚くことにイギリス政府は、行き過ぎた福祉政策で財政逼迫し、それを1980年代に見直すまで失業保険の開始年齢は16歳だったそうです。

また、この時、同時に受給資格を「就労訓練を受けること」を義務付けました。
そうすると、訓練を受けるくらいならお金なんていらないという連中が登場しました。こういう連中をほっとくと食うに困り、何をしでかすか判らない。
こういう連中をNEETと名づけ犯罪対策、薬物対策を講じなければならないということです。


一方、日本でのニートの定義は、15歳から34歳の未婚で無職、非学生のものを指しており、2002年現在で約85万人いるそうです。このニートには、家事手伝いも含まれているそうです。

この数字には、かなり驚きです。新聞等では、イギリスの定義どおり、職業に就くための勉強や努力もしないと言う事が報じられていますが、この本で定義されているニートの中に何万人くらいが、これに当たるのかは非常に興味のあるところです。

20代後半以降にもなって、働かず、働く努力もしない人々がいると言う事はそれだけで驚きです。
そんな連中に将来にわたって膨大な税金を投入されるのではないかと考えるだけで俺は腹が立つ。

僕は、そろそろ中年を意識し、もはや若者ではない事を自覚しているのですが、ニートの定義が34歳までというのは、ちょっとカルチャーショックです。

そんな僕が、著者とともに戦後教育が日本に残したものを考えていきたいと思います。

著者は、ニートがこれだけ増大したのは、「人権」「自由」で推し進めてきた戦後教育の結果だというのです。
なぜなら、生徒の人権に最大限、留保し、生徒の自由を最大限に認めた結果、そんな甘やかされた“保育園教育”から、お客さんの理不尽な苦情に頭を下げ、上司というだけで敬わなければならない理不尽な社会へは、誰も行きたがらないからだと著者の森口朗氏はいうのです。

実際に“保育園教育”で育った若者との付き合いはないですが、インターネット、2ちゃんねる、テレビなどで耳に入る若者像を考えると肯ける部分があります。

僕が大学を卒業する頃、大学を卒業してフリーターをする人が登場し、話題になっていました。90年代初頭の頃の話です。

今では、高校生の進路にフリーターという選択肢が占める割合は、少なくないそうです。
これには、不況下の産業構造の変化が大きく影響していると思います。
スリム化したい企業は、正社員をリストラし、低賃金で済む非正社員を雇うという方針を取りました。

もちろん、フリーターを選ぶ若者の労働に対する意識の変化を見逃せません。
終身雇用制が崩れ、一つの企業に一生就くことは不可能となった今、意識が変わって当然です。
この事は、派遣、ネットビジネス、週末起業、SOHO等、様々な労働形態の登場に如実に現れています。
若者の労働に対する意識の変化に対する深い考察は、資料不足のため、ここでは避けます。

僕が中学生の頃は、校内暴力の時代で、こんな地方の中学校でも、先生に廊下で牛乳瓶、投げつける奴や昼休み、教室でダンスパーティーをしてる連中もいました。尾崎豊の歌ではないですけど、校舎の窓ガラスが割られている事もしょっちゅうでした。
僕よりも少し下の世代では、尾崎豊は、カリスマ的存在または特別な存在みたいですが、こんな中学生時代を過ごした僕には、特別的存在になりようにありませんでした。
なぜなら、僕らの頃は、尾崎豊が歌う歌詞のように、実際、窓ガラス、割れてたし・・・

校内暴力の時代でしたが、同時に管理教育の時代でもありました。スカート下の丈が何cm以下とか決まっていて、マジで先生たちは計っていた時代でもありました。

マスコミで行き過ぎた管理教育が取り上げられるのは、もう少し後のことで、当時は校内暴力で学校が無茶苦茶という報道が多かったと思います。

当時を過ごしたした一人として言わせて貰うと、校内暴力に参加したのは、ごく一部の生徒だけではないでしょうか?
ただし、気分としては学校のやり方、先生のやり方に不満や反発を感じる人は多かったように思います。
かく言う私は、勿論、校則にうるさい学校に反発心はありましたが、遊びに夢中で学校が面白く、毎日、友達と会うのが楽しみでした。

ところが、ど田舎の進学校に進むと、管理教育が徹底しており、息苦しくて仕方がありませんでした。
この時期、大きなストレスを感じ劣等生となっていました。
この時の経験を、脚本家になろうかと思って大学を休学していた時期に、テーマを“管理教育に押しつぶされていく個人の人格”とし、原案をまとめた事もありました。
自分としては、キューブリックの「博士の異常な愛情」を意識していました。
キューブリックはその後、有名な「フルメタル・ジャケット (Blu-ray Disc)」の前半パートで、落ちこぼれの訓練兵のが仲間のいじめと指導兵によるしごきによって、精神に異常をきたすのを描きましたが、僕にとってはカリカルチャされすぎで、イマイチの印象を受けました。

映画等を観るということは一見、受動的なように思えますが、自分の経験や価値観というバファーを通して“観る”ということで能動的な作業です。
これを哲学用語では“パッション”とも呼びます。
したがって、観る人にとって受ける印象はまちまちだと思います。

著者が言う“保育園教育”といのは、ここ10年から20年の事であり、そうでなかった時代の方が長かった事には触れていません。

また、著者は、本書で子供が大人になる過程で共同体で不条理なことに従う経験が必要だと主張しています。
そして、いまだに不条理な世界を温存している部活動に期待を寄せています。
不条理な事に従う事により、忍耐力が養われると言うのです。

しかし、これも程度問題ではないでしょうか?
僕は、体育が苦手で、それを気にした母親が少年野球チームに入れた頃からずっと大学まで体育会系で過ごしましたが、中学からは、文科系クラブに入る気がせず、主体的に。
さすがに大学の体育会系の厳しさには耐えていかれず、1年後には辞めましたが。

僕は、少年の頃、友達とはよく話すが親戚でも大人の前に出ると、話す事が出来ない内気な子供でした。
そんな僕が、体育会系クラブを通して得た性格は、人前では過度に我慢し、自分の意見をはっきりいえないというものでした。
この性格を大きく変えたのは、大学の研究室での経験です。自分の意見をはっきり言わないと、埋もれてしまいます。
セミナー発表等で、自分なりの考察や意見を言わないと一人前扱いされませんでした。

ただし、著者・森口朗氏の言う共同体には不合理なところがあるというのには賛成です。
著者・森口朗氏の言うように日本社会という共同体には、先祖礼拝等の不合理な部分があります。また、全て理詰めで合理的な社会(共同体)とは、味気ないものとなることでしょう。
このことは、一部の外資系企業の人間関係に見て取れるのではないでしょうか?

著者・森口朗氏が言うには、これら日本社会にあった家制度や宗教的で不合理な部分を壊した張本人はGHQだとしています。
この旧民法的な考え、家制度を破壊したGHQを中心とする戦勝国のやり方に、著者・森口朗氏は恨みのような感情を持っています。
確かに著者・森口朗氏の言うとおり、家制度の破壊が核家族という特異な家族形態を生み、嫁が「何で本当の親でもない義理の親の面倒を見なければならないの?」という感情を生み、結婚が全て恋愛を経なければならないという幻想を生んだ一因ではあるとは思いますが、それが全てであるとは思いません。
例えば、テレビから流れる物にあふれたアメリカナイズされた生活への羨望もあったと思います。
後述するように全共闘世代の影響もあると思います。

また、著者・森口朗氏は偏差値競争教育社会前面肯定論者でありますが、僕はこれには大いに異論があります。
確かに著者の言うように、偏差値を導入する事により、自分の学力が日本全体で知れるという利点がありますが、そんなちぽっけな利点よりも、弊害の方が大きいと僕は思います。
まず、人の価値が偏差値のみで計られるというのはどうかと思いますが。
これだけ価値観が多様化した時代にとって、また平均化した知識よりも創造性が要求される時代にととっては、もはや時代錯誤の産物としてしか僕には考えられません。

僕は、今のように少年が学校という共同体しか存在しないのは間違っていると考えています。
月並みですが、地域社会等にも居場所を見つけるようになるべきです。

僕が住んでいる兵庫県が神戸殺傷事件の反省から始った「トライヤルウィーク」の運動が全国に広まった試みには大賛成です。
今の高校がアルバイトを禁止しているのかどうかは知りませんが、高校生はもっとアルバイトに参加すべきです。そして、大学生は、もっと高度な技術を必要とするインターシップをもっと利用するべきです。
そうすることにより、企業社会に触れ、企業の論理を学び、働くとはどういうことかを学ぶべきだ。

大学生にもなって、小遣い稼ぎくらいのアルバイトしかせず、親から経済的自立も出来ず、またはしない日本人の大学生は、世界の大学生に比べて異常だ。

よくサラリーマンの税意識を変えるのには、確定申告を自分ですればいいというような意見をよく聞きますが、大学生も自分の授業料を自分で払うと、コスト意識が生まれ、もっと真剣に授業を聞き、一部で導入されている授業の評価制度にも、もっと身を入れて考えるのではないでしょうか?
20年同じ講義をしているのではないかと思うような教授にはサッサと退場してもらって。

子供が学校社会という共同体だけに存在しておけばいいという価値観は、女性も会社で働くべきだと頭では解っていながら、猛烈社員となり企業という共同体でしか存在しないアホでまぬけな全共闘世代の残した負の遺産です。
彼らは家には寝に帰るだけで、父親として家での責任も果たさず、地域社会にも参加しません。
この全共闘世代が負の遺産について、もっと知りたい方はしたの新書をどうぞ!

昔、革命的だったお父さんたちへ―「団塊世代」の登場と終焉 (平凡社新書)

。全共闘世代とは付き合いがありますが(父親のことではありません)、議論好きで相手の意見を尊重し、対話する事を知らず、一方的に自分の意見を主張する全共闘世代が俺は大嫌いだ!

彼らが日本社会に残した負の遺産は大きい。
無党派層というわけのわからない層を生み出したも彼らだ。
あれだけ、政治、政治といっていたにもかかわらずにだ。

彼らこそ戦後民主主義の申し子だ。
人権、人権とわめき散らし、「自由」を“勝手気ままに生きる”と曲解し、その思想を広めたのも彼らだ。
ニートの源泉がここにある!
断っておきますが、これは僕の個人的意見です。

昔、革命的だったお父さんたちへ―「団塊世代」の登場と終焉 (平凡社新書)にもあるように、彼がうまうまとこのまま定年を迎え、年金暮らしに入るのには大いに不満がある。
その年金の出処といえば、次の世代が払わなければならない。
少子高齢化社会に突入している今、団塊の世代ともいう膨大な人数がいる世代の年金を次の世代が払うのには無理がある。

消費税を上げて、なんら社会にコミットしてこなかった全共闘世代には、税金を支払うということで社会への役割を果たしてもらうべきだ。
勿論、今まで厚生年金を払ってきたのではないかという意見も聞こえてきそうですが。

戦前の多様な日本社会を破壊するキッカケを作ったのがGHQだとしたら、それを実践したのが全共闘世代だと僕は考えます。

彼らが、残した負の遺産を払拭するためにも、下の世代が奮起しなければならないと考えています。

注)この記事は、安部政権が登場するずっと以前に別のブログで書かれたものであるので、彼がやろうとした教育改革には、一切触れられておりません。
あしからず。



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