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シリーズ 平和とは 保坂正康「あの戦争は何だったのか」を読んで第2次世界大戦について考える

靖国問題でまたクローズアップされているためか、マルクス史観からやっと解き放たれたのか、憲法改正が具体的な政策課題として提出されているためか、新たに先の大戦、第二次世界大戦をどうとらえようかという議論が活発です。

本書「あの戦争は何だったのか」は、サブタイトルに“大人のための歴史教科書”を掲げ、保坂正康氏が「あの戦争は何を意味して、どうして負けたのか、どういう構造の中でどういうことが起こったのか」を明らかにするために書かれた本である。

しかしながら、結論から述べると、新書という制約があるにしても、本書は“大人のための歴史教科書”になり得ていない。

まず、巻末にもどこにも参考図書や引用書籍がかがげられていない。時折、当時の政府高官から取材して、聞いたという話が織り込まれるが。

これは、ノンフィクション作家としてだけでなく、歴史を語る人間として全く不誠実ではなかろうか。
出展が掲載されていない以上、反論のしようもないし、事実であるかどうかを確かめるすべもない。
従って、本書をもとに第二次世界大戦への認識を深めようにも発展させえることができない。

本書「あの戦争は何だったのか」には、当時の状況では、開戦は不可避であったが、科学技術も発展し、大国であったアメリカに無謀にも戦いを仕掛けた愚かな日本という構図が見え隠れするが、資料的裏付けがないため説得力を持って訴えてこない。

あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書
あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書
保阪 正康

本書「あの戦争は何だったのか」を簡単に紹介していきましょう。

第一章 旧日本軍のメカニズム

陸軍士官の養成機関、海軍の教育機関、徴兵制の仕組み、帝国陸海軍の機構図について書かれており、帝国陸海軍の機構図の中で大本営が意味する機構について書かれています。

これは、よく第二次世界大戦が軍部の暴走と説明されているため必須であると思われるが、今まで触れられてこなかったため非常に新鮮な感じを受けました。

第二章 開戦に至るまでのターニングポイント

開戦に至るまでのターニングポイントとして、まずニ・ニ六事件を挙げている。

ここで当時の日本人が法廷で「自分たちが犠牲になるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった。」と涙ながらに訴えたニ・ニ六事件を起こした青年将校たちのために減刑嘆願運動が多く起こり、マスコミも「動機が正しければ・・」と青年将校たちに非常に同情的だったと紹介されています。

ここの事を保坂正康氏は、“一種異様な空気”と評していますが、果たしてそうでしょうか?
刑事裁判においても動機が重要視され、これに似た事は戦後も散見されなかっただろうか。

僕は、敗戦によって日本または日本人が、それまでの歴史から断絶したのではなく、むしろ継続しているものが大変、多いと考えています。
当時のほとんどの日本人が農民であったことを割り引いても、動機が純粋だからだといってクーデターを起こし、何人もの政治家を惨殺した青年将校を擁護するのはいかがなものか。

動機が純粋だからだいってなんでも許されるのだろうか。
彼らの犯したことは国家反逆罪である。
こういう自分達の自由の権利への侵犯に対する鈍感さは、現在でも見られないだろうか?

いつの時代から、日本人は、犯した結果よりも、その精神性に重きをおくようになったのだろうか。
僕は、こういう感性が古来から日本人にあるとは思わない。
むしろ、大正あたり以降から、現在まで続く心性だと考えている。


保坂氏は、このニ・ニ六事件以降、テロへの恐怖から軍部の力が増大していったとしているが、これは、もはや昭和史の常識となっているところではなかろうか。

続いて太平洋戦争を第二の開戦に至るまでのターニングポイントとして皇紀2600年に当たる昭和15年を挙げている。

第三章 快進撃から泥沼へ

真珠湾攻撃から半年にわたる“快進撃”、そして初の決定的敗戦となった「ミッドウェー海戦」と「ガダルカナル攻防戦」、その後の“泥沼”に至る転換点となるなるところまで説き起こし、「なぜこの戦争は続けざるを得なかったのか」ということを根底に考えようと試みている。

そこで保坂正康氏は、当時の指導部が戦争に勝利し続ける間も、「この戦争はいつ終わりにするのか」ということが眼中になかったことを指摘する。
また、「ガダルカナル攻防戦」においての無為無策ぶりも指摘する。
そして、この「ミッドウェー海戦」と「ガダルカナル攻防戦」の敗戦を受けて、当時の軍事指導者たちが戦争を終結を考えるべきではなかったかと述べる。

このことに僕は激しく同意する。
僕も当時の日本の指導者の頭の中に、この戦争の最終目標が何か、どのようにして終わりを迎えるのかが、全くなかったとしか思えない。


そして、昭和17年前半までの「快進撃」と破滅に向かう昭和19年の間に位置する「昭和18年」という年をクローズアップさせる。
この年は、連合艦隊司令長官・山本五十六が、ブーゲンビル島の上空で撃沈された年である。


第四章 敗戦へ-「負け方」の研究

その後の転落していく戦線の様子を伝え、天皇陛下の終戦への向けての動きを解説しています。

第五章 八月十五日は「終戦記念日」ではない-戦後の日本

遅かれ早かれ、軍の暴発は起こっていたはずとする保阪正康氏は、「この戦争は始めなければならなかった」と結論付ける。
その上で、保阪正康氏は、始まった戦争を“どう収めるべきか”という事を全く考えていなかったのは、お粗末というしかないと断じる。
そして、戦争の以前と以後で、日本人の本質は何も変わっていないとも。

そして、再び植民地になったインドネシア、ビルマ、ベトナムで異国の地にとどまり、その国の独立運動のために命を賭した日本人が何千人単位で存在したことを伝え、彼ら日本人が日本では「逃亡」扱いとされ、生きて日本に帰ってきた者も、軍人恩給の面で差別されていた事実を伝える。

この事実を踏まえて保阪正康氏は、「大東亜共栄圏は、アジアの独立、開放のためになった」と言う元高級軍人や政治家と彼らに追随して「大東亜戦争の肯定論」をまく人たちに怒りをにじませる。

僕はこのことを初めて知ったのだが、保阪氏の言うとおりだと思う。
文字通り「大東亜共栄圏」のイデオロギーを信じ、殉じて逝った彼らをないがしろにして、そのようなことを述べるのはけしからんと思う。

あとがきにおいて

保阪正康氏は、“太平洋戦争批判”の主要な点を、二点に絞る。
第一点は、なぜあのような目的も曖昧な戦争を三年八ヵ月も続けたのかの説明責任が果たされていないこと。
もう一点は、戦争指導にあたって政治、軍事指導者には同時代からは権力を賦与されただろうが、祖先、児孫を含めてこの国の歴史上において権限は与えらていなかったこと、つまり、あの戦争では「一億総特攻」とか「国民の知の最後の一滴まで戦う」などといったスローガンが指導者に叫ばれていたが、そのような日本という国を滅ぼしかねない権利は、過去から、また将来からも与えられていないということである。

このことにも僕は激しく同意する。
勝手に日本を滅亡の道へと導くような権利は、誰にもないのだ。

また、あの戦争に見られた戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく姿は、現在にも見られるのではないかと指摘する。


幾つかの点で保阪正康氏と意見を一にするにもかかわらず、裏づけのあるもう少し詳しい歴史的記述を期待したい。
僕は、“侵略”であるかなしかを問うよりも前に、先の戦争は愚かな戦争だったと思う。


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